いぬの夜鳴き

夜鳴きと怪文書

No.18

傘は当分いらない

クトゥルフ神話TRPGシナリオ「こゝろ」(作者:333屋様)のネタバレがあります。

探索者の二次創作です。
あくまでも自分がこのシナリオを経て書きたくなった妄想SSです。
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 ふぅ、と息を吐いて手を止める。気づけば空に浮かんでいるのは青と混ざり合った橙。どうやら自分は思っていたよりも長い時間手を動かしていたらしい。

 あの悪夢のような数日から時が流れた。じい様にでこぱち、はらまる。みんながいなくなった家はとても広くて、一人きりで過ごすことは正直今でも慣れていない。食事は二人前つくってしまうし、うっかりじい様が見ていたドラマの録画を続けてしまう。それでも帰ってきてすぐの頃と比べるとだいぶ心は軽い。もう枕を濡らすようなことはしていない。なんなら鼻歌交じりにこうやって家の掃除だって一人でできるのだ。

 掃除はもっぱらじい様の仕事だった。体が大きくなってからは多少手伝いもしたけれど、やれ「埃を吸うな」だの「重い物を運ぼうとするな」だの散々言われ、最終的に大掃除では窓拭きぐらいしかしていなかった。窓拭きだって体力を使うではないか、と思ったがほかの誰でもないじい様から頼まれた仕事だ。そりゃもう何日もかけて家中の窓を綺麗に磨き上げたとも。
 窓拭きと占いって似ていると思う。曇っている窓を俺が丁寧に拭いてやれば見えてなかった景色が見える。こうしてみればいい、と提示すれば迷いに迷って視界が狭まってしまった人たちの表情も晴れる。窓と心、どちらも外から内からどんどん曇っていくものだ。だからこそ誰かが拭いてやらないといけない。
 戻ってきてすぐ、四十九日もまだ終えていないような時期。俺はあのまま仕事を辞めるつもりだった。元々誰かさんの笑顔のために始めたことで、職自体にそこまでこだわりがなかったから。でも結局辞めなかった。
 物事を新しく始めるのが苦手だったり、生きていくのに必要な稼ぎを得るためであったり。何よりも自分を贔屓にしてくれている人たちの曇りを拭ってやることにやりがいを感じていたから。
 俺はカウンセラーでもないし、精神科医でもない。だから絶対的な安心感を迷える彼らに与えてあげることはできない。それでも俺を頼ってきてくれる人たちがそこにいる、それならばその手を取って、少しでも気分を晴れさせるべきではないだろうか……なんて。かっこつけたことを言ってみたが、実際のところは常連さんにだけ窓口を開けていたらそのまま辞め時を見失ってしまっただけ。そう、それだけなのだ。

「っと、そうだ」
 窓を閉めて本棚と向き合う。棚は動かないように固定されているけれど、あの村の部屋と同じように本がずらりと並んでいる。小説やエッセイ、そして料理の本。
「今日は~何を食べようか~」
 これかな、あれかな、と本を取り出しなら歌う。今日は蒸し暑いからそうめんにでもしてしまうおうか。そういえばアイスがまだあったなぁ、デザートに食べようか。
「ん?」
 料理本に混ざって並んでいる一冊の旅行ガイド。手に取り見てみると、ここからあまり遠くない温泉地。
「ここ、じい様行きたいって言ってたとこ……」
 随分前。そう、確か修学旅行の日に熱を出した俺に、じい様が「錦生が元気になったら行きたい」と言っていたあの場所だ。間違いない。結局じい様がそのまま入院してしまったので実現することはなかったけど。
 ぱらぱらめくると目に入ってくるのは「単純泉」の文字。ははぁ、確かに肌に優しいこれならば自分やじい様でも入りやすかったはずだ。
「病後の回復期にぴったり、かぁ」
 どうしてこの場所をじい様が選んだのかは本人じゃないからわからない。だけど俺と一緒に行きたいと思っていてくれたのだけは本当だ。

「──いい機会、かもしれないねぇ。じい様」
 今日の夕飯は有り物だけでなんとかしよう。それよりもやらなければいけないことができた。さっさと食べて宿を取ろう。それから大きな鞄を探そう。あの日持って行ったものよりも大きな……じい様の押入れから掘り起こせばあるかもしれない。それから着替えも出そう。あと必要な物はあるだろうか?
 そうだ。万年筆、どこに置いたかな。紙は……うぅん、もういっそ現地で探そうか、うん、そうしよう。

 明日、朝から旅に出よう。
 そんなに大した距離じゃない、電車を乗り継いで行けるぐらいの場所だけど。
 まずは宿に荷物を置いて、食べ歩きでもしようか。そうだ、ついでに土産物も見ていこう。確かここは織物なんかも有名だったはずだ。おしゃれな物があるかもしれない。
 宿に戻ったら温泉にゆっくりと浸かって。夕飯を食べたら手紙を書こう。いま自分がどこにいて、何を見て、感じたのかを。
 宛先はもちろん、あの人に。

 明日の天気は晴れ。東錦生のぶらり一人旅は、きっと楽しいものになる。
▶とじる

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#こゝろ #東錦生

怪文章