いぬの夜鳴き

夜鳴きと怪文書

No.13

ヒロイン、じゃない

アンサング・デュエットシナリオ「アンラッキーバレンタイン」(作者:朝菜様)のネタバレがあります。

NPCがメインの二次創作です。
あくまでも自分がこのシナリオを経て書きたくなった妄想SSです。
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 彼女が彼を初めて認識したのは、一年の文学講読の授業だった。
 この日の講義は遅延に巻き込まれた教授が到着するまで自習という、自由に見えて教室から出ることができないなんとも扱いづらい時間となっていた。
 教室全体がざわざわとして、みんながみんなスマホやペンを片手に隣に座る友人と言葉を交わす。
 彼女──水本奈津実もそんな大勢の中の一人だった。友人と話をしながら次の講義の課題をする、ただしその進みはもちろん良くない。
「うーん、ここ、どう解釈すれば良いんだろ」
「ここって?」
 ここ、と奈津実は指を指す。のぞき込んだ彼女の友人だが「私もわっかんないわ」と言い、自分の定位置に戻る。仕方ないと課題にもう一度向き直ろうとした奈津実の視界に、ななめ前に座る青年がちらつく。ふわふわとした黒髪の彼は授業で扱っている一冊を読み進めているようだった。
「でさー……ってちょっと奈津実、聞いてるの?」
 ただ黙々と本を読んでいるだけのはずなのに。周りで騒がしくしている男たちとは違う雰囲気を持っているように感じられるその後ろ姿に、水本奈津実は思わず目を奪われた。

 奈津実が青年の後ろ姿を見続けて気付けば数ヶ月経った。それだけ経ったのに彼女は未だ、彼の顔を正面から見たことがなかった。理由は簡単だ、この講義は全席指定で、奈津実は前から二列目で青年は一番前だった。そして講義が終わると青年はすぐに退席してしまうため、声をかけるタイミングすらないのだ。
「なーんて理由を色々並べてるけどさ、それって単に奈津実が意気地なしだからじゃないの」
「うっ」
 図星だった奈津実は言葉に詰まる。そう、気になるのならば話しかければ良いだけなのだ。中身なんてなんだっていい「本が好きなの?」とか「専攻は何にするの?」とか。でも彼女にはそれができなかった。
「だって真面目そうだから私みたいなのが話しかけても絶対相手にしてくれないって……」
「大丈夫だって、あんたも十分真面目だから」
「そんなことないよ。こうやって課題しながら話してるし」
「課題やってるだけ真面目よ、大真面目」
 今日も教授は遅刻するらしい。ただ前回と違って今回はしっかりと課題が出されてる。講義終了までに終わらせなければならないそれに奈津実はペンを走らせていた。
「そいやこのプリントって誰に出せばいいの?」
「えっと、一番前の列の人がまとめて持ってくって……」
 そこで奈津実はあ、と口を押さえる。それを見た彼女の友人はにんまりと笑う。
「ほら、いい口実」
「え、で、でも」
「もー、いつまでもあの頭眺めてるだけじゃ何にも始まんないよ」
 彼女の言うとおりだ、と奈津実は手を口元に添える。自分が何故こんなに視線を奪われるのか、その理由にまだ名前はつけられない。何も知らないからだ、青年のことを。
「私が見守ってたげるからさ」
「ううぅ……」
 それでも、と口ごもる奈津実だが、行くよ、という一言とともに歩き出す友人の後を俯きながらもついて行く。
「ねぇプリント、あんたが係なんでしょ? はい、これ。」
 ずい、とプリントを渡し友人は後ろにいる奈津実の腕を引っ張り、自分の前に連れ出す。
「ほら、奈津実も」
 あ、う、と言葉にならない言葉を発しながら奈津実は目の前の青年を見る。顔立ちは少し幼さが残ってはいるものの、その雰囲気は後ろで見ていたときよりも冷たさを感じない。
「水本さんのも預かって良いの?」
「──え?」
「? どうかしたの」
 不思議そうに奈津実を見つめる彼の瞳は、空みたいに青かった。
「えっと、私の名前……」
「あぁ。前にこの授業で指名されてたから……ってごめん。気持ち悪いか、話したことないのに名前知ってるのは」
「う、ううん!」
 名前、知っててくれたんだ。それだけのことなのに奈津実は先ほどまでの葛藤はどこへやら、舞い上がって心の中でダンスまでし始めていた。
「それで、プリントは……」
「あっごめんなさい! これです」
「うん。預かっとくよ」
 そう言う青年がほんの少しだけ微笑んだ。
 水本奈津実は、その微笑みに目を奪われた。

 それから少しずつだが、奈津実は青年──青井空に話しかけるようになった。例えば「この本が面白かった」、例えば「今日はいい天気だね」、例えば……。
「私なしでも話できてんじゃん! やるぅ」
「かっ、からかわないで!」
 ごった返している昼の食堂でかの友人と二人昼食を取っていると、必然的に奈津実の青い春の話へと会話は移っていった。
「で、どうなの?」
「どうなのって?」
「青井の好みのタイプとか聞いた?」
「き、聞けるわけないじゃん……」
 ああいう男は性格重視だよ、と彼女の友人はけらけらと笑う。もう、と頬を膨らませる奈津実だが突然彼女に「ねぇ」声がかかる。その声は先ほどまで話題に上がっていた青年のものだった。
「ごめん、話してる途中で。隣、座ってもいい?」
 まさか彼から話しかけられと思っていなかった奈津実は思わず「ひょっ」と情けない声を出す。そんな彼女の代わりに対面に座っていた友人が「いいよー」と返事をする。
 奈津実の隣に腰を下ろした彼は、手に持っていたトレーをそっとテーブルに置く。トレーの上には本日のカレー。普段大人びて見える彼がカレーを選んだ事実に、奈津実の口から「可愛い」という言葉が転がり落ちた。
「何が?」
「あ、う、ううん! 何でもないよ」
「それにしても青井もカレー食べるんだね」
「俺を何だと思ってるのさ。そりゃ食べるよ」
 むしろ好きだし、と言って彼はスプーンを口に運ぶ。このシーンを切り取ってみると、まるで普通の男の子みたいと奈津実は思う。
「いやだって、いっつもあんた水しか飲まないみたいな顔してんじゃん」
「どういう顔だよ」
 こういう顔。友人の真似る顔を見て、奈津実の隣に座る彼は呆れたように笑う。あ、そんな顔もするんだ。自分だけでは引き出せない表情に思わず釘付けになってしまう。それこそ友人に「奈津実、見すぎ」と言われるまで見つめてしまっていた。
「あーね、ところで青井の好きなタイプってどんな子?」
「えっ、ちょ、何聞いてるの!」
「あんたはいいから」
 突然の質問に驚く奈津実と対照的に、彼は動じた様子もなく、カレーを食べる。
「ねぇ、どうなの?」
「そう、だな」
 料理上手な人、かな。
 そう言った彼は今まで見たことないぐらい、優しい顔をしていた。

 奈津実は今、青井空の家の近くまで来ていた。
 住所は彼の友人から事前に聞いていたので、迷うことなくたどり着くことができた。
 ここまで来た理由は、二月十四日という日付と手に持つ紙袋とその中身──綺麗にラッピングされた小包──だけで十分伝わるだろう。
 メッセージアプリには友人からの「頑張って」の四文字。
 水本奈津実は、伝えたい想いがあってここまで来た。それは一年のあの日から抱えていた感情で、今の彼女の頬とは違って青い気持ち。
 吸って、吐いて。奈津実は胸に手を当てて深呼吸をする。
 ──大丈夫、きっと言える。
 そう思って顔を上げた彼女の目の前には青井空ともう一人。とても綺麗な黒髪を持つ女性がいた。
▶とじる

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#アンデュ

怪文章